この記事では、ファミコン開発に至るまでの軌跡を、ポイントとなる過去の遺産に注目しながら追っていきます。なお今回の記事ではファミコン自体の紹介はありません。
世界初の家庭用ゲーム機 – ODYSSEY
世界初の家庭用ゲーム機は1972年発売、米国 MAGNAVOX(マグナボックス)社の「ODYSSEY(オデッセィ)」です。
ODYSSEYにはグラフィック性能と呼べるだけの大層なモノはなく、およそ光源としての白い矩形が描けるだけです。その代わりオーバレイと呼ばれるイラストが描かれた透過性シートが付属しており、このシートをテレビ画面に張り付けることで必要に応じてゲーム画面を再現していました。例えばルーレットのイラストが描かれたオーバーレイでは数値の裏で矩形が光ることで出目が示される仕組みです。
コントローラはセパレート式でリセット以外のボタン類はなく、水平・垂直を操作する2つのパドルコントローラ(回すタイプのつまみ)が付いています。創世記のゲーム機はラケットでボールを弾き返しあうゲーム「PONG」を起源としているためか、パドルでのコントロールは一般的なものでした。また意外なのはODESSEYには既に光線銃コントローラまで存在していたことです。銃社会である米国らしいといえばらしいのかもしれません。
ゲームはカード交換式ですが、ゲーム自体は本体に内蔵されており、カードには単なる切り換え回線が入っているだけです。そもそも当時はまだマイクロプロセッサが一般化していなかったので、ICなどは一切使われておらず、本体とゲームを分離する意味がありませんでした。
ODEYSSEYはそれまでテレビが単なる受像機に過ぎなかったものをインタラクティブな道具に変化させた画期的な商品でした。ただセールスも比較的好調だったものの、それでも1975年のクリスマスにはMAGNAVOX 社の販売予測を下回っていたようですし、技術的にもけして先進的なモノではなく誰でも作れるものと認識され、業界に対する信用も懐疑的なものだったようです。
日本初の家庭用ゲーム機 – テレビテニス
日本で初めて発売された家庭用ゲーム機は1975年にエポック社から発売の「テレビテニス」です。
前述ODEYSSEYのMAGNAVOX社からライセンス認証を受けて開発されたもので、いわゆる「PONG」に類似したゲームになります。ただし、画面上に得点表示はなく、本体に付属しているダイヤルを使って手動で得点を付けていくことになります。ゲームは本体内蔵、コントローラも本体と一体のパドルコントローラと、数多く発売されたタイプの標準的なゲーム機でしたが、UHF電波を使ったワイヤレス仕様になっているのが特徴的です。本体中央に”ELECTROTENNIS”と大きく描かれたオレンジ色の筐体が印象的ですが、日立系の店舗で販売されたシルバーの本体バージョンもあり、こちらには”VIDEO GAME”の文字が書かれていました。同世代のゲーム機としては2万台程度と不振に終わっていますが、日本の家庭用ゲーム市場に踏み出した第一歩という意味では重要な一台です。
ROMカートリッジ交換式の登場 – Channel F
米国フェアチャイルド社が1976年に発売した「Channel F」は、知名度の高くない製品ですが、世界初のプログラマブルなROMカートリッジ式のゲームソフトを採用した、カートリッジ交換式の家庭用ゲーム機です。本体にはFairchild F8という8bit CPUを搭載、26タイトルのゲームソフトが発売されました。ヨーロッパ諸国ではクローン機が作られたり、日本でも丸紅住宅機器販売社が正規に輸入販売するなど、発売当初こそ一定の人気は博していたものの、翌年には市場を席巻するとATARI2600の登場より、急速に勢いを失っていったと言われています。残酷な話ですが、正直、歴史的には初のROMカートリッジ交換式採用以外に特筆すべき点は特にありません。
市場を牽引した家庭用ゲーム機の盛者必衰 – ATARI2600 (ATARI VCS)
アーケードゲーム業界のトップメーカーだったATARI社が1977年に発売したのがROMカートリッジ交換式の家庭用ゲーム機ATARI2600(当初の名称はATARI VCS)です。
ATARI2600は米国のゲーム市場を作り上げたといっても過言ではありません。当初の滑り出しは上々とは言えず経営のみならず多くの問題に売り上げは足を引っ張られる状態でしたが、1980年発売のスペースインベーダーの大ヒットを起爆剤に全米で3割の世帯に普及する程の爆発的なヒット商品になりました。これには意図せず生まれたカートリッジ交換式の副産物ともいえるサードパーティーの存在が大きく関わっていたのですが、一方でそれらは粗悪品の乱発にも繋がる大きな問題の根源でもありました。特に語り草になっているのは「E.T.」です。当時のゲーム開発には6~8ヶ月程度を要していましたが「E.T.」の開発依頼はわずか5週間。しかも依頼の36時間後には企画を仕上げ、スピルバーグ監督にプレゼンをする必要がありました。それでも開発者は何とか企画もプログラムも期間内に仕上げ、クリスマス商戦に向け数百万本が生産、小売店に納品されていきました。しかし開発者自身の満足度やスピルバーグのGoサインとは裏腹に、実際のゲームは駄作でした。当然です。あっという間に悪評は広がり、クリスマス直前になって発注は取り消され、莫大な数の在庫が溢れました。行き場のなくなった在庫が埋め立てられたという噂まで流れる始末です。しかも、そんな馬鹿な話と思っていたら2014年になって実際にゲームが掘り起こされる珍事まで発生するオマケつきです(1200本弱でしたが)。何にせよ、この出来事は米国におけるゲームバブル崩壊の呼び水となった出来事として認識されています。粗悪品の氾濫がすべての原因ではありませんが、様々な要因が重なり、1982年クリスマス商戦をキッカケにバブルは破裂、1983~1984年にかけて米国のゲーム産業は崩壊を迎えました。これがいわゆるATARIショックです。こうして米国ゲーム産業は冬の時代を迎えます。
ファミコン販売の足掛かり – カラーテレビゲーム15・カラーテレビゲーム6
米国で ATARI2600 が発売された1977年、日本では任天堂初の家庭用ゲーム機「カラーテレビゲーム15」が発売されました。
任天堂がテレビゲーム機販売に手を染めるに至ったのには、元は三菱電機がシステックという会社と共同開発していたもののシステックが倒産してしまったため、過去にアーケードゲーム開発で共同開発をしたことのある任天堂に話を持ちかけたことに端を発します。
「カラーテレビゲーム15」は15種類のボールゲームを内蔵し、セパレート式のパドルコントローラを採用。カラーテレビに対応しながらも、他社製品に比べ価格を抑えたものに仕上がっています。しかし当初、山内社長は\10,000で作れという指示を出しており、どうしても\15,000を切ることは出来ませんでした。そこで任天堂は、ゲーム数を6種類に抑え、パドルコントローラも本体に内蔵した廉価版の「カラーテレビゲーム6」を\9,800で同時発売します。基盤そのものは同じものでもあるため、赤字も覚悟の上です。\9,800というインパクトに加え、購入希望者が5000円の差で倍以上のゲームが遊べるならばゲーム数の多い方を選ぶはずというある種の賭けだったようですが、これらの戦略は見事に功を奏し、「カラーテレビゲーム16」を中心に合わせて100万台以上を販売、その後の家庭用ゲーム機の販売の足掛かりとなりました。
ファミコン開発の足掛かり – ブロック崩し
1979年に任天堂が初めて自社開発した家庭用ゲーム機。
6種類のブロック崩しが内蔵されており、注目すべきは、当時デザイン部門に所属していた、後の世界一有名なゲームプロデューサーである宮本茂氏が本体デザインをおこなっているところでしょうか。今見ても任天堂らしさの溢れるデザインになっています。
「カラーテレビゲーム15」「カラーテレビゲーム6」「レーシング112」に続く、カラーテレビゲームシリーズの最後のハードウェアであり、このシリーズではACアダプタがオプション扱いで流用できるようになっています。開発のノウハウだけでなく、コスト削減に対するノウハウも、すでにこの頃から蓄積されていたようです。
ファミコンの遺伝子 – ゲーム&ウォッチ
1980年に登場したゲーム&ウォッチは任天堂が開発した初の携帯用ゲーム機です。
ゲーム&ウォッチは1つのハードに1つのゲームを内蔵したゲーム機で、ディスプレイは単色でキャラクター表示の位置や形状ごとに固定された、表示のON/OFFしかできないセグメント液晶になっています。当時の任天堂には液晶やマイコン関連技術のノウハウが薄く、シャープとの共同開発が行われました。シャープとは光線銃玩具の開発時代からの付き合いであり、長く親密な関係が続くことになります。コントローラ部分は丸ボタンもしくは十字キーが採用され、コンパクトかつ操作性に優れたものになっています。この時発明された十字キーが後のファミコンはおろか後続するあらゆるゲーム機に影響を与えることになるのは言うまでもありません。
ファミコン開発を加速させたゲーム機 – コレコビジョン
1981年、任天堂の山内社長はついに家庭用ゲーム機の開発を命じます。しかし既存の家庭用ゲーム機は、任天堂の求める「アーケードゲームが自宅で遊べるようなゲーム機」のイメージとは異なるものでした。高額高性能なアーケードゲーム機での開発にはノウハウもあります。しかし、これらが低価格な家庭用ゲーム機でどこまで再現できるのか、理想像は既存のゲーム機からは見えてこなかったのです。
この迷いを断ち切るように現れたのが米国コレコ社でした。コレコ社は最新のビデオプロセッサを搭載した自社の家庭用ゲーム機「コレコビジョン」の日本での販路を求めて試作機を持参していました。最終的には任天堂のドンキーコングをコレコビジョンに移植する取引へと変わっていたものの、こうして移植されたドンキーコングは、任天堂自身の家庭用ゲーム機開発の理想とする姿を体現するものに仕上がっており、理想は技術的に再現可能なのだということを任天堂に確信させ、ファミコンの開発を加速させることになります。
コレコ社の「コレコビジョン」は、1982年に発売された家庭用ゲーム機です。
CPUにザイログ社のZ80、ビデオプロセッサにテキサスインスツルメンツ社のTMS9928Aを搭載し、業務用ゲーム並みのグラフィック性能を実現しました。目を見張る再現性で移植されたドンキーコングは大きな話題を集め、さらにはライバル機とのソフト数の絶対的な差を埋めるために、ATARI2600のゲームを動作させる拡張モジュールを販売しました。当然ATARI社は特許侵害でこれを訴えるものの、モジュールには汎用部品しか使われていないという理由で、コレコ社は優位な立場から、逆に独占禁止法違反の反訴を匂わせ、ライセンス料を支払う形の合意しています。